心に余裕がないときでも、朝焼けが綺麗と思えるか?
この冬の時期、早朝ランニングをしていると朝焼けがとても綺麗で感動します。
私の場合、このように景色に感動できるのは、心に余裕があるときだけです。
ところが、生命の危機が迫っているような極限下でも、景色を味わえる人達がいます。
なぜそのようなことができるのでしょうか?
極限の状況下で景色を味わえる人達
例えば「夜と霧」の著者フランクルとその仲間らは、
生命の危機という極限状態でも景色を味わえた人達です。
ある日の夕方、フランクルはアウシュビッツ収容所での
過酷な強制労働に疲れ果て、収容所の床でへたり込んでいました。
その時、囚人仲間の一人が「おい、外を見てみろよ!」というので
フランクルは渋々外に出ました。
そこで彼らが目にしたのは、あまりにも見事な夕焼けだったといいます。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ」とフランクル達は感動したそうです。
収容所内で毎日囚人達がバタバタと亡くなっていく中、
フランクル達は、死が明日は我が身という状況下でも
景色に感動できたのはなぜなのでしょうか?
この人も味わえたという
他にも19世紀のアメリカで奴隷たちの反乱を扇動した罪で絞首刑が決まった
ジョン・ブラウンも、その極限状態の中で景色に感動できた人の一人です。
彼は棺桶の上に載せられて処刑台へと向かう途中で見たバージニア州の景色に、
「なんて美しい国だろう!今までこの美しさを味わう機会がなかった…」と
感嘆の声を上げたといいます。
彼らは心に余裕があったのか?それとも…
フランクル達やジョン・ブラウンは、どうしてこんな極限状態の中で
景色を味わえることができたのでしょうか?
極限状態であっても、その恐怖や危機に動揺せず、
心は冷静で余裕すらあったということなのでしょうか?
それとも恐怖や危機に動揺しながらも、
景色を味わえる人が少なからず存在するというのでしょうか?
なお、ジョン・ブラウンについては、彼に付き添った看守の証言によると
彼は冷静そのものだったといいます。
ジョン・ブラウンは免れない死を運命と受け入れ、
その結果、恐怖を克服し景色を味わえる程の余裕ができたということでしょうか?
参考文献
・『夜と霧』ヴィクトル・E・フランクル みすず書房(1985.1)
・『道は開ける』D.カーネギー(香山晶 訳)創元社(1959.12)