根拠や立証がない迷信や縁起を気にしてしまう自分はどうなのか?

私は幽霊とか呪いなどは信じません。

それでも迷信を気にしたり、

縁起が悪い行為は避けようとしている自分がいます。

科学的・論理的思考を尊重する一方、

それに反する行動をする自分とのギャップに

ちょっと恥ずかしく思えたりします。

実際の私の非論理的な行動についてみていきます。

仕事でミスしたときに着ていた服は勝負時には着ない

初回面談やセミナー講師の仕事などで

上手くいかなかったときに着ていた服は、

なぜか「縁起が悪い服」と思ってしまします。

ですから、いざ大事な仕事があるときは、

その縁起が悪い服は着ないようにしています。

それでも試しに、その服を着て「ここぞ!」という仕事に臨んだことがありました。

結果は何の問題もなく無事終了し、その服による悪影響はありませんでした。

それでも着ている間は、不安を感じたり落ち着きません。

試験で合格したときのペンは筆箱に入れておく

税理士試験の受験生だった頃、某会計事務所で働いてました。

その事務所の上司が試験直前にボールペンをプレゼンしてくれました。

「このボールペンを使って試験頑張ってね!」という意味だと思いましたが、

既に馴染んだお気に入りのペンがあったので、

頂いたペンはお守りとして試験会場に一緒に持っていきました。

そしてその年、無事に最終科目に合格して税理士になることができました。

それ以来、頂いたペンは縁起が良いお守りとして、

携帯する筆箱にいつも入れています。

筆箱にいつも入れているからといって、

それが幸運をもたらすという科学的根拠はありませんが、

それでも手許にペンがあると、なぜか安心するのです。

北枕にして寝ない

人が亡くなると北枕にして寝かせるということで、

北枕で寝ることは縁起が悪いという言い伝えがあります。

これも迷信でしょうが、敢えてチャレンジして北枕で寝ようとは思いません。

自宅ではもちろん北枕で寝ませんし、

旅先のホテルでも、北向きでないことを確認しています。

神社やお寺の敷居は踏まない

これも科学的根拠はないでしょうが、

神社やお寺の敷居は踏んではいけないという迷信があります。

中学時代の修学旅行で奈良や京都の神社やお寺を巡りましたが、

そのときは、やんちゃで敢えて故意に敷居を踏んでました。

ですが、大人になった今は、中学時代のときのように

積極的に敷居を踏もうとしません。

根拠はありませんが、その行為が禍をもたらすことを

恐れているからです。

まとめ

このブログを書いて分かったことは、

迷信の科学的根拠の有無の問題ではなく、

自分の気持ちの問題ということです。

迷信や縁起の良し悪しに科学的根拠は無いかもしれません。

しかし、敢えてそれを無視して行動すれば、

何か悪いことが起きるのでは?という

負の感情が湧いて、無駄な心のエネルギーを消耗してしまいます。

すると、本来やるべきことに集中できなくなって

物事がうまくいかず、失敗したりします。

そう考えると、根拠の有無にかかわらず迷信などに

従うメリットはあるのです。

編集後記

今週火曜日から税理士試験が開始しますね。

私も5年前まで受験生でしたが、

今はもう何十年も前の昔に思えるのは、なぜでしょう?